
果たして自分は望み通りの方向を選んできたのだろうか?
歳をとると父の様に自分の選んできた道は決定されていたのだと言う傾向になる
哲学的に言えば決定論である
私は団藤刑法の影響を受けているので、非決定論を学んでいるので、よく父と論争になった!
喜びも悲しみも運命のなせる技だと言う
そうやって受動的に受け入れてゆく
だとするならば犯罪を犯した人間は全て運命のなせる技で
その人を非難して刑を課せないことになる
犯罪は構成要件該当性と違法性、有責性があるから
刑を課せる
人間の行動は主体的人格の現実化たる身体の動静と定義されている!自由の契機こそ人格責任論の本質!
非決定論を根底にする
団藤刑法はそこに核心がある
ほとんどの裁判官、検察官、弁護士は
団藤刑法を学んでいる
この歳になってその根本は変わらない
しかし世間を騒がせた首の切断事件の責任能力が問題にされているが
切断に手を貸した両親は極めて冷静に受け入れて
母親はいつか娘が正常な精神を取り戻してくれるだろうと
父親は冷静に心理学者としての知識を生かし
逆らわない様に受け入れてしまっていた様に見える
何度も危険な性格が顕在化する事を自覚していた様だ
そんな時決定論に立てば
そんな危険な人間は社会から隔離する様な保安処分的な対応ができていれば、残酷な悲劇を避けられたのかもしれない
非決定論はそんな時無力を感じる!
もし被告人にその責任能力が無いとすれば無罪になつてしまうからだ!
決定論であれば被告を社会から隔離して予防できたかもしれない!
仮に責任能力がないとされ、家庭に戻ったら
両親は一体どうしたらいいのだろうか!
父親は残酷な結果を受け止めて
娘の正常な感性を引き出すよう一生を捧げるのだろうか!?
恐らくそのつもりなのであろうが
難しい判断を迫られる裁判官
私の研究室の同期の仲間は検察官や裁判官になっているが
あの事件を前にすると、裁判官にならなくてよかったとさえ
思っている自分がいる