
本人も言う DNAは争えない!
私とニコンとの思い出はしらさぎを撮ったら世界的に有名な
田中徳太郎さんが浦和と大宮に自宅があった頃に良く来ていたからなのです!田中徳太郎さんを知る人は少ないだろうがおすすめの機種としてNikonが一つ一つの部品が際立つて質がいいから
一生ものだからと言う言葉をこの歳になるまで覚えているからです!しかし当時の値段はおいそれと手が出せない、まだ学生の身分だった頃の話徳太郎さんと鷺山に行った事を今でも覚えています!頭上から雨のようにフンが落ちてきた事をこの間の様に覚えているのです!笑
しかし一眼レフへの憧れから大学生時代都内の公園のプールの監視員をして稼いでペンタックスSPを購入!広角と望遠レンズを入れるとかなりの額になるのだけど、Nikonより手を出しやすい価格でした!そして早大の友人と北海道撮影旅行をして回ったのです!(彼は銀行を退職してから、世界中を旅して野鳥を撮り続けているのです)
その刺激を受けた父は私のカメラを無断で持ち出して野鳥友の会で野鳥撮影に使っていたのです!
所がある日ピカピカのカメラになって返却されたのです!
なんと旅行で私のカメラを失くして、黙ってそのカメラを新しく買い替えて私に戻したのです。やけに新品だなあと思って探るとそう言うことだったのです!父も弁護士業の傍ら野鳥に興味を寄せたのは、田中徳太郎さんのおかげだったでしょうか!
そして俳優塩野瑛久もその影響を受けているのでしょうか?
次の動画を観て、その感を強くしました!
撮られる側から撮る側へ回るのですが
その感性は引き継がれている思いを新たにするのでした


動画はこちら
私からもNikonを推薦しています
思い出はクレープと共にのキャッチフレーズは
Nikonから来ているのです
デジタル中古でも20万以上しています
近い将来親子で写真展するのが夢です!
俳優塩野瑛久は
劇団EXILEの仲間たちと写真展を実現しています
更に一年続けた「あきじかん」の連載に載せた写真を
カレンダーにしています
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載せられる限界までレイアウトしてあります
小学館百貨店というサイトでのみ販売中です
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PS
■田中徳太郎氏のプロフィ-ル
1909年埼玉県北葛飾郡幸手町(現・幸手市)生まれ。
40歳の時、24年間在職した国鉄大井工場を退職し、浦和で写真材料店を開く。
1954年より浦和市郊外野田(現・さいたま市緑区上野田付近)のさぎ山に渡来する白鷺の撮影を始める。
1955年白鷺作品、皇居にて天覧を賜る。銀座・小西六ギャラリ-で2人展開催。
1956年アメリカタイムライフ誌、ニューヨークタイムズ誌、スイスカメラ誌など諸外国の雑誌に白鷺の作品が紹介される。
1958年にはニューヨーク近代美術館とメトロポリタン美術館に各1点ずつ永久コレクションとして収蔵。
1959年ベネチア第2回写真ビエンナ-レ展に「白サギ」17点を発表、イタリア全土にTV放送される。
1960年東京銀座、小西六ギャラリ-に「鷺の社会」最初の個展開催。
1961年フランス・モンベリエ国際展でアンドレ・マルロ-文化大臣賞受賞。
写真集「白さぎ」刊行。第11回日本写真協会年度賞受賞。
1963年アメリカ・オ-デュポン協会マイアミ年次総会会場で白さぎ150点の個展。
1966年西ドイツミュンヘンBMWパピリオンギャラリ-で「白さぎ」展開催。
1967年アメリカ・ワシントン・スミソニヤン博物館ギャラリ-で「白さぎ」展開催。
東京国立科学博物館で「白さぎ」展開催。
1970年写真集「しらさぎ」刊行。
1982年にはフランス国立古文書館に50点が永久コレクションとして収蔵。
1985年浦和市シラサギ記念博物館に白サギ作品150点収蔵。
1986年川崎市立ミュ-ジアムに白サギ作品20点収蔵。
1989年11月13日逝去、享年83歳。